どんな人気者だって、わたしたちと変わらない人間だとつくづく思うのである。
2008年のM-1グランプリで大ブレイク、2009年も駆け抜け、2010年もその勢いが止まない感じのオードリーの「漫才」を2010年、初春、久しぶりに見た。
まさにオードリーパッケージ。春日らしいキャラ芸と若林らしいツッコミ。
その漫才は短期間に、短時間用に、オードリーの漫才らしく仕上げられていた。みんなが知っているオードリーをみて、みんなが安心できるように。
ボケとツッコミが逆だったのは有名。その逆のVTRもテレビでみた。
なぜかそれもオードリーという漫才師のパッケージのひとつに思えた。パッケージとはこの際、それを見ると必ずオードリーを堪能できるというもの。
しかし、彼らには漫才米騒動や、ケイダッシュステージの時代がある。
そういう舞台に、彼らは今と同じような、パッケージなネタをしていたのだろうか。
または、逆ボケツッコミのように、現在に至るプロセスであっただけだろうか。
まったく、実験的なことはしてなかったのだろうか。
たぶん、してはいた。
商品になったオードリーのDVDにはある程度収録されているだろうが、それもまた、「春日にお金を使う楽しみを覚えさせる」という企画が時間を裂いて収録されていると聞く。「春日のお金ネタ」もまさしく人気者のオードリーのパッケージ商品に他ならない。
パッケージ。その中に収録されているのは、ぼくらの「オードリー」
快進撃が続くオードリー。私は彼らが個人的にも好きだ。
ただ、2010年、できればどこかで彼らの「オードリー」を見たいと思えてきた。
春日若林の「オードリー」
独自のコント番組を持ちはじめたチュートリアルではなく、番組を企画するほとのナインティナインでもなく。彼らはきっと、ぼくらの「チュートリアル」であり、地位を固めて自分らしさを主張はじめたが、ぼくらの「ナインティナイン」としてとぎすまされている。
それはそれで、エンターテイメントの世界では必要なことだ。
だがなぜか、オードリーには、、松本人志に近い側に行ってほしいと思う。彼の「生み出す」媚びない笑いがつねに注目されるように。
キャラ芸、トーク、であってもいいが、
出来れば「漫才」でそうあってほしいと願うのはわたしだけだろうか。
縦横無尽に脱線する春日はきっと、やや下ネタも入ることになるかもしれないし、冷静だがつい調子にのって若林が毒をはき始めたら、それはそれでかなり面白くなると思えてならないのだ。