総天然色BLOG

ためていても仕方がない。
考えていることは吐き出して行こう。
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社会人になれていますか?〜社会学について〜
学生→社会人、になると、よくいいますなー。
 まるで、小学生が中学生になるみたいな言い方だけど、実はそういうことでもないと思うのだ。 

  社会学、という学問がある。 

社会学がなぜもっと浸透しないのかと何年たっても歯がゆく思うことがある。
社会学(しゃかいがく、英: sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問である。その研究対象は、行為、行動、相互作用といったミクロレベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動(社会変動)などマクロレベルに及ぶものまでさまざまである。思想史的に言えば、「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)」を作り出そうとする学問である。
WIKIからでございます。一応、転載してみたが実に、茫洋たる学問で、何故茫洋たる学問かというと、「社会」というのが茫洋としている、、、という点に他ならない。 社会人になるというのは、社会に出る、つまりは働きにでる、ということになる。 働きに出るというのは、お金を儲けることなのだけど、お金を儲ける方法の他にも学ばないといけないことがある。 それこそ、まさしく関係。 学問をしていると、テストということで「採点」され「正解」があるわけだが、「社会」には、正解とは言えない正解じゃないことがたくさんあって、それが社会を動かしていたりする。

社会学という学問になると、カール・マルクス、マックス・ウェーバー、エミール・デュルケームとかから始まる理論を学ぶというプロセスがあったりで、それはそれで大変なわけだけど、それらの中にある「社会学的思考」というのが、もやもやした茫洋として社会を歩くための選択肢をいっぱい増やしてくれるのだ。


たとえば、アノミーという言葉がある。宗教的なこの言葉をはじめて社会学に持ち込んだのはエミール・デュルケームと言われている。この言葉は、「なんでもいけるじゃーん」という自由な状態になればなるほど、「不安定」な状態を引き起こす、という状態を指す。例えば、私服の学生が「私服を選ぶのが面倒」「何を着たらよいかわからん」と思い、学校に行けなくなるってのんもあるとかないとか。社会学の古典なら、アノミー的自殺。自由に自分の欲望を追い続けて歯止めがきかなくなり(妥協できず)、実現できない!と自分で決めて、絶望して自殺してしまうこと。
自殺に縁のない方がいたとしても、自殺に至る過程の中に、自分を見ることはできないだろうか。

こんな学問の内容の中に、ひとつの組織論があり、ビジネスがあり、解決法がある。私服を許して規制がきかない学校があれば、おしゃれな制服という「規制」を持ち込んでみるさじ加減。そのおしゃれな制服が時代遅れになり、私服の方向へ動けば、戻して見るさじ加減。


なんとも茫洋な社会だからこそ、「社会学的思考」はリアルタイムな方向性を思いつかせてくれる可能性がある。

つまりは現場の判断力にもつながらないだろうか?
で、そういう判断ができてこそ、人は社会人になれるのではないかと思ったりする。


しかしながら社会学は、やはり茫洋としている。
「社会学的思考」だけが一人歩きして、書籍になったりしているフシもある。だが、文字として形になることで、学問にもなり、浸透しやすくなり、社会学の幅が広がりすぎたり、いろんな問題があったりするのだろう。


でも個人的には、茫洋としててもいいじゃん!と思うのである。
なぜかというと、理想的な社会を定義することはできないからだとしか言えない。

社会人になるには、教科書はないのだ。
| 真面目なことを考えてみる | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
ぼくたちの「オードリー」〜春日と若林
 どんな人気者だって、わたしたちと変わらない人間だとつくづく思うのである。
2008年のM-1グランプリで大ブレイク、2009年も駆け抜け、2010年もその勢いが止まない感じのオードリーの「漫才」を2010年、初春、久しぶりに見た。

まさにオードリーパッケージ。春日らしいキャラ芸と若林らしいツッコミ。
その漫才は短期間に、短時間用に、オードリーの漫才らしく仕上げられていた。みんなが知っているオードリーをみて、みんなが安心できるように。

ボケとツッコミが逆だったのは有名。その逆のVTRもテレビでみた。
なぜかそれもオードリーという漫才師のパッケージのひとつに思えた。パッケージとはこの際、それを見ると必ずオードリーを堪能できるというもの。

しかし、彼らには漫才米騒動や、ケイダッシュステージの時代がある。
そういう舞台に、彼らは今と同じような、パッケージなネタをしていたのだろうか。
または、逆ボケツッコミのように、現在に至るプロセスであっただけだろうか。
まったく、実験的なことはしてなかったのだろうか。

たぶん、してはいた。
商品になったオードリーのDVDにはある程度収録されているだろうが、それもまた、「春日にお金を使う楽しみを覚えさせる」という企画が時間を裂いて収録されていると聞く。「春日のお金ネタ」もまさしく人気者のオードリーのパッケージ商品に他ならない。

パッケージ。その中に収録されているのは、ぼくらの「オードリー」

快進撃が続くオードリー。私は彼らが個人的にも好きだ。
ただ、2010年、できればどこかで彼らの「オードリー」を見たいと思えてきた。

春日若林の「オードリー」
独自のコント番組を持ちはじめたチュートリアルではなく、番組を企画するほとのナインティナインでもなく。彼らはきっと、ぼくらの「チュートリアル」であり、地位を固めて自分らしさを主張はじめたが、ぼくらの「ナインティナイン」としてとぎすまされている。
それはそれで、エンターテイメントの世界では必要なことだ。

だがなぜか、オードリーには、、松本人志に近い側に行ってほしいと思う。彼の「生み出す」媚びない笑いがつねに注目されるように。

キャラ芸、トーク、であってもいいが、
出来れば「漫才」でそうあってほしいと願うのはわたしだけだろうか。
縦横無尽に脱線する春日はきっと、やや下ネタも入ることになるかもしれないし、冷静だがつい調子にのって若林が毒をはき始めたら、それはそれでかなり面白くなると思えてならないのだ。
| いつか忘れてしまうテレビ | 16:54 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
恵まれた仕事場
恵まれた仕事場。んなもん、幻想である。
<求人サイト&自社サイト編> ・ハロワや求人メディアの常連 ・○年後には年商○億円目標と謳っている ・求人欄にやたら精神論が目立つ(夢をかなえるなど) ・会社設立からそれほど年数が経過していないにも関わらず給料モデルがやたら高額である事 ・取り締まり役にやたら同じ苗字が目立つ事(家族経営確定。家族経営に就職してはいけません) ・社員の集合写真をやたら掲載している企業。社員がピースサインをして写っている写真を載せている企業は要注意です。そういう写真を恥ずかしげもなく掲載する企業ほどいろんな意味で問題のある企業が多いです。 <電話&面接編> ・電話での応対がつっけんどんな企業。応募自体やめるべきです。 ・面接の席は企業の体質を見極めるチャンスです。面接担当の態度が居丈高だったり、履歴書に目を通そうとしない、面接の席で何故か説教めいた事を言われる、スキルを馬鹿にする・・・こうした企業に何かの間違いで採用されたとしてもその後待っているのは劣悪な労働環境と人間関係です。 ・面接で訪問した際、社員がおどおどした態度の企業。恐怖政治体質である事が伺えます。 ・初出社を急く企業も要注意です。
ブラック企業(DQN企業)というのんを調べていたらでてきた記事。

会社というのは、中身が隠されていて、その隠す仕組みとしては、会社内で平均化された事柄がいつしかできて、その物差しが世間とずれていても、社内でずれていなければ良い感じ。またブラック企業内でやっていける方もいるわけで、その方がブラックじゃない方に勤められない可能性は多いような気もする。 会社ははいらないとわからない。組織特有のメリットも多い。という基本はさておき。

ブラック企業という言葉が生まれたのはいいことだが、言葉が生まれると隔離が始まるのである。 「ブラックじゃない企業」は、はたして良い職場か。 「ブラックじゃない」という条件を満たしていればそれでオケーというわけか。 いまいち書いていると自分で、貴様何を言いたいんだとツッコミ入れたくなってきたな。 友人関係を壊し、家族を壊し、体を壊し、自分自身の目的がなくなってしまうような職場だったら、それは間違いなく止めるべきだ。その条件が全部揃っていたらなおさら。でも、その条件が一個くらいだったらどうだろう。体を壊しただけで仕事を辞めるべきか。 たぶんそれは、おおまかには、ノーだろう。体を壊しても、労働者の実力によっては組織が変わる場合も考えられる。 このへんのことを書いていると、何事もいつも、あいまいなのだと逃げたくなってくる。 でもって、自分がいる状況に負けるな、と言いたくなってくる。 恵まれた職場?んなもん、あるか。 自分でつくったらいい?んなもん、つくれるか。 ようするに、日常は、仕事とプライベートのバランスから成り立っているフシもあるのだ。
| 真面目なことを考えてみる | 16:23 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
避難×非難。
JUGEMさんは嫌いじゃない。
使いやすいに馴染みやすい。だが、使えないのである。

無料はありがたいが、時間は有限。
こうも無駄足させられると睡眠不足になる。

ただ今、「シーサー」に避難中。馴染みにくいが、イイペースで何げなく書けている。なにしろ軽い。使いやすくもなった。

戻ってくる日は来るのだろうか。
| - | 08:38 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
サイダーハウスのルールの主張
どこかに属している限り、「社会」はある。
社会が先か、個人が先か。社会学から遠ざかっているので現状把握には疎くなっているかも知れない。ただ、社会中心で理論は先行しているな、とは思っている。

「サイダーハウス・ルール」
ラッセ・ハルストレム監督作品の映画である。 ジョン・アーヴィングの原作。脚本も彼が担当している。そこで、主人公ホーマーが孤児院を出て初めてリンゴ農園の労働者と暮らす場所がサイダーハウスである。その壁には一枚の紙切れが貼られていた。
学校の規則みたいなお決まり事で、しかも、字の読めない労働者には何の意味もないもの。

ルールとはそういうもの、そのシンボリック的存在である。
どこにいても「ルール」はあるのだ。

リンゴ園の労働者のボス、ミスターローズはリンゴそのものであり、皆の指導者であり、そして娘のローズロースと出来ていた。つまり娘の範疇以上に愛していたのだ。それを、同じように働く労働者は何も言えない。

主人公ホーマー育った孤児院の医師、ラーチ。彼は社会と逆の世界を創ろうとしていた。イヤ、彼が社会と逆の場所にいるのだ。だから孤児院の理事会は彼の意見の逆、ばかりを採用する。
そうそう、当時、禁止されていたらしい堕胎も起こっているし。
またラーチも、医師免許偽造なんて平気でやる。医師に免許はいらない。孤児院のルールであり、社会の反ルールだ。

その二人を観ながらホーマーは自分が何であるか見つける。女性がどういう存在なのかも目の当たりに見る。この時代のどんなルールも映画では飛び出してないようだが、どうも、自由ではない。だが、そこんとこはラーチは知っている。ホーマーも。

今度はホーマーがルールになる。
サイダーハウスのルールが無意味なことを彼はもう知っている。
どんなルールが社会に必要か、まだ誰にもわかっていないが。
| バラバラ映画コメント | 08:15 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
もっと自由を!!〜クリエイティブ・コモンズ
ブログなどで自分の文章がカンタンに発表できるようになると、ただノートに書き記しているだけなら考えなくても良かった問題がでてくる。
その文章は別の「何か」に使用される可能性である。一般的には「引用」。だが嬉しい「引用」も多い。だが中には意図しない「引用」、または「悪用」と呼べるもの出てくる場合もある。

「ああ、いいな」と思うことこそ、感受性の発露である。感受性は新しい想像を生む。それに制限は本来、あってはならない。だがいったん発表すると常に「悪用」される危険ははらんでいる。しかしそれを防ぐための固苦しい注意書きなどは、一般の来訪者にいらぬ感情を与えかねない。ジレンマである。

問題は制限をしなきゃいけないような状況なんだが、万人が皆、お利口さんというわけでもないのである。ジレンマは言葉だとカタカナ4文字だが、陥ってみれば途方なく大きく深い「穴」なのである。解消できずに一生引きずっていかねばならないと言ってもいい。つまり、例えば「悪用」が面倒で自由な表現が一生できないのか、というジレンマ。

クリエイティブ・コモンズというのは、そんなジレンマを出来るだけ、という範囲で解消しようとする大きな試みだと思う。
クリエイティブ・コモンズもいわば「悪用」を防ぐ注意書きではあるが、これさえ守ってくれたら、後は自由に使ってイイモノを作ってちょ!と高らかに宣言してるのだ。内容はこれからどうなるかわからないがマークは4つだけだ。そのマークを組み合わせて自分のポリシーにあった宣言をする。

何より、デザインがかっこいい。自由っぽい。
本当の自由はどこにもないが、もっと自由を!の証である。

※私自身は、準備中。その前に少し、考えをまとめさせていただきました。


クリエイティブ・コモンズ---知のイノベーションを守るために

クリエイティブ・コモンズ@japan
日本の「クリエイティブ・コモンズ」の可能性
創造的な著作物の共有地を広げよう
| ネットの中のアレコレ | 19:47 | comments(0) | trackbacks(1) | | ログピに投稿する |
ヒトのことをとやかく
2004年のアテネオリンピック、女子レスリング63キロ級の伊調馨のコメントが胸にジーンときた。
「千春がいたから」
金メダルの喜びの第一声が姉への感謝だった。お姉ちゃんも48キロ級で銀メダル。お姉ちゃんもきっと同じようなことを考えていただろう。

話は唐突に変わる。
ヒトのことをとやかくを言う、ふざけた名前のBLOGの管理人をしてる。アテネオリンピックということで、出場選手の話もチラホラさせていただいた。
そうだな、今までいろんな方のお話をさせていただいた。ポリシーとして、皮肉は言うけど、悪口は言わないというのはある。ノリは立ち話に近いけど、誠意を持って愛情もって、と、常に思ってる。でもそんなこと、どうでもいいや。

「○○○さんがいたから」
ワタシは文章をかかせていただいてるんだな。今も、馨選手のコメントに触発され、ヒトのことをとやかく言わせてもらってるんだな。

お礼は言えるときに言っておくほうが絶対いい。
ありがとうございます、だ。
これはお話をさせていただいた方はもちろん、読んでいただいた方、コメント、トラバをいただいた方全てに。
| ネットの中のアレコレ | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
生命よりも大事な商売
普通に生活していても、命の瀬戸際に陥るときはあるのだ。
身近なところで「薬」。医者が処方を間違えば。薬剤師が処方を間違えば。死ぬ危険は当たり前のようにある。

道を歩いていても。
交通事故。それに、「動機なき殺人」に巻き込まれるっていうのもある。

美浜原発事故、労働安全衛生法違反で関電を書類送検へ
 福井県美浜町、関西電力美浜原発3号機の蒸気噴出事故で、福井労働局と敦賀労働基準監督署は23日、関電が破損した配管の検査を怠り、同社職員を危険にさらしたとして、労働安全衛生法違反(安全管理義務違反)の疑いで関西電力(藤洋作社長)を書類送検する方針を決めた。(読売新聞)


11人が死傷した。全員、下請けの検査会社「木内計測」の社員さんだと言う。
これは配管の検査を怠ったのが原因。まさしく、普通に仕事をされていた方が命の瀬戸際に立たされ、命を失っているのだ。

生きていくには、どうしても必要なものがある。いろんな事情もある。キレイ事を言っても詮無いことだ。だが、根幹に据えておくべき基本は失ってはならない。

普通に生活していても命の瀬戸際に立たされるのだ。
命より大事なものはそうそうないはずのである。
| ニュースが騒いでいる | 00:38 | comments(4) | trackbacks(2) | | ログピに投稿する |
大河ドラマ『新選組!』三十三回のワルグチ。
なんだろう、これは。

堺雅人の山南敬助には、『新選組!』番組当初から興味が湧きまくっていた。まずは、演技が上手い!それと、芹沢鴨に続き、死ぬとわかっていながら、芹沢よりもずーとクローズアップされていないキャラがどう描かれるか。興味津々だった。

まずは率直なところ、泣かされてしまった。コミカルな演出をされているのに、それが全部、山南さんへの気持ちに繋がってゆく。井上源三郎が持ってきて食事を「切腹の前に食事とは・・」と断るシーン。あれは、いつもなら笑いの間、だ。だが山南は心の中で源さんに頭を下げている『あなたらしい心遣いです』と。小林さんのリアクションも自然だ。
と、このシーンは忘れられやすいが名シーンなので記しておくことにする。

数々の名シーン。大きな波ではないが、涙を誘う。
だが肝心なものが抜け落ちている。スゴク気持ち悪いのだ。
それは。何故、山南さんが脱走してかということ。
ちゃんと三十二回に描かれてはいる。描かれているが、その理由を新選組の誰が納得したというのか。彼の死の中身はホントに空虚なのである。沖田に聞かれた通り、「疲れたから」その程度のもの。自分の未来と戦わなかったのだ。そのことが抜け落ちている。

『友の死』という副題がついている。
それは演じる役者さんのオココロのような気がする。一緒にがんばってきた堺雅人さんの死を見届ける。だが実際、山南さんは友ではない。

斎藤一がうまく言い表している。
「オレにはお互いを敬い認め合っているように見える」広い意味では友かも知れない。だが友とは、永倉さんと同郷の浪士の間柄のことを言う。友なら、山南さんを切腹させるような状況をつくらなかったはずだ。

少なくとも山南敬助は、「新選組」に友を作らなかったような気がする。
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| いつか忘れてしまうテレビ | 01:57 | comments(2) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
ただ野球を愉しんでいる。
2004年8月21日、アテネオリンピック、台湾との試合。
10回裏、小笠原に打順が回る。1死満塁。1ストライク1ボールからの3球目、外角低めのスライダーを打つと、打球はレフトへの犠牲フライ! 三走の高橋がヘッドスライディングでホームに還ってきて、日本がサヨナラ勝ち!

テレビはグラウンドに集まってきた選手がうつっていた。
プロ野球から選抜された選手たち、長嶋ジャパンという肩書きを背負う。アメリカ不在のオリンピックでメダルへの期待は大きいらしい。
だが、逆転で試合に勝ってグラウンドで祝福しあう姿をみて、そんなことは全部吹っ飛んでいた。
いい試合だった。そもそも、4対3というスコアは熱戦を物語っている。攻守とも素晴らしいプレイでないと、はじき出せる数字じゃない。

ペナントレースでは決してチームメイトになれない選手たち。だが、野球選手を志した基本のところはそう変わらないんじゃないだろうか。

純粋に野球を愉しんでいる。こんな選手たち、オリンピックでしか観られない。
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| いつか忘れてしまうテレビ | 14:31 | comments(2) | trackbacks(2) | | ログピに投稿する |
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